呼吸器内科で勤務する吉村先生
病院の特徴はどのようなものでしょうか。
吉村大阪市の都心部にある大規模な病院です。病床数は883床を持ち、かつ歴史もあります。当院のある天王寺区には大阪警察病院、NTT西日本大阪病院が前身だった第二大阪警察病院がありますが、当院には天王寺区をはじめ、東成区や生野区といった市内の方はもちろん、近鉄沿線の八尾市、東大阪市、遠くは三重県名張市からも患者さんが来院されています。当院の最寄り駅である鶴橋駅はJR、近鉄、大阪メトロが通っており、交通の便がいいので、他府県からの患者さんが少なくないようです。また近くの生野区には在日朝鮮・韓国人の方々が多く住んでおられますが、そういった方々からも信頼をいただいている病院です。
医師を目指したきっかけをお聞かせください。
吉村父の姉である伯母が血液内科医で当院に勤務していました。また父が歯科医師、母が臨床検査技師で当院に勤務していましたので、当院には馴染みがある環境で育ちました。そういう医療関係者が家族に多かったこともあり、知らず知らずのうちに医師になることを刷り込まれていたのかもしれません。私がまだ小さいときに母が亡くなり、私はその伯母に育てられたんです。伯母が重症患者さんの急変で、夜中に呼ばれたりするところも見ていましたし、女性が仕事をするのは当然のことであり、仕事をするなら医師だと思い、医師を目指しました。
研修先に大阪赤十字病院を選ばれたのはどうしてですか。
吉村当時はほとんどの人が母校に残って研修する時代でしたが、たまたま大阪赤十字病院が2人の研修医を募集すると母校にオファーしてきたんです。それにチャレンジしようと応募したところ、2枠に2人しか申し込まなかったので、2人とも受かりました(笑)。そして教授推薦という形で、同級生と2人で当院に来ました。当時は大学での研修は給料も安く大変だったので、チャレンジしてみて良かったです。
実際に研修をなさってみて、いかがでしたか。
吉村当時は今のようなスーパーローテートの研修ではありませんでしたが、内科系の診療科を全て回るのは同じでした。私も内科系の全ての診療科を順番に回りましたし、救急での研修も今と同じような形で行っていました。
ご専門を選ばれたきっかけについて、お話しください。
吉村当時の大阪赤十字病院は面白い制度になっていて、病棟ごとにレジデントを取っていました。私は初期研修の2年間を終えたら、当時あった14号病棟に残ってレジデントをすることになったんです。14号病棟は消化器内科と血液内科がメインでしたので、その2科を回ることになりました。ただ、その方針を決めるのは初期研修中でしたし、それを決めたあとで呼吸器内科を回ったときに呼吸器内科が断然いいなと思い、上の先生方に相談して、卒後3年目の秋から呼吸器内科でレジデント研修を始めました。
スピリーバカプセルの指導を行う吉村先生
呼吸器内科のどのようなところが良かったのですか。
吉村当時は呼吸器内科医が少なく、母校の呼吸器内科も少し弱かったんです。私を当院に推薦してくださった教授も血液内科でしたし、内科の王道は血液内科であり、消化器内科でした。大阪赤十字病院でも消化器内科が強く、血液内科と並んで華やかに見えました。一方で、呼吸器内科はまだ隔離されていて、分病棟と呼ばれる別棟にあったんです。大学でもそんなに詳しく学ばなかったので、呼吸器内科の魅力に気づかずに卒業し、ローテートしたという状況でした。それで実際に回ってみると、呼吸器内科では感染症、アレルギー疾患、腫瘍、呼吸管理など、様々な内科の大半を占めるところに位置していることが分かり、その守備範囲の広さに惹かれました。呼吸器内科には治らない患者さんもいますが、治していかないといけない患者さんも多くいます。気管支喘息やCOPDなど、管理をすれば大きく改善する疾患もあり、何か一つのことに関わっていくのではなく、バラエティに富んだ疾患を診られることが魅力でしたね。
専門の研修はいかがでしたか。
吉村呼吸器内科の専門研修を始めてすぐに外来を担当するように言われました。病棟も当時は呼吸器内科だけで100床以上あり、1人で20人以上の患者さんを担当していました。指導医の先生もいらっしゃるのですが、ほぼ1人で担当しないといけない状況はかなり大変でしたね。色々な手技もできるようになりましたし、バラエティに富んだ患者さんを外来で自分でフォローしていく必要がありました。ただ、院内での呼吸器内科の役割がはっきりしており、当直も呼吸器内科だけで組んでいたので、分からないことがあればすぐに上の先生に聞ける環境だったのは研修しやすい環境でした。
研修が終わって、医局に所属されたのですか。
吉村研修が終わったときに当時の部長と相談したんです。私は大学の同級生と一緒に当院での初期研修を始めましたが、その同級生は3年目の4月に呼吸器内科のレジデント研修を始め、京大の医局に入りました。私は9月に呼吸器内科のレジデント研修を始めましたが、そのときに上司から「先生は京大の医局に入るなんて言わんとってくれ」と言われたんです(笑)。当時の大学は医局員が少なかったので、大学から引き上げられたら大変な状況になることが予想されたからだと思います。それでひとまず母校の医局に入ることになり、当院を紹介してくださった教授がおられた第一内科に所属することになりました。
大学院にも行かれたのですね。
吉村大学院では肺がんの研究をしました。大学院では仲間も増えましたし、同じ大学出身の先生方と上下関係にいることが新鮮でもありました。ただ、当時は大学院生と言えども1年間は病棟の仕事もしなくてはいけなかったので大変でしたね。自分たちで採血したり、採血のスピッツや抗生剤の点滴を準備したり、伝票を作ったりと、とても忙しかったです。当時は出産直後でしたが、子どもを伯母の家に預けて、大学院に通っていました。伯母の家には従姉たちもいましたので、面倒を見てもらったんです。それから実家のすぐ近くに引っ越しをして、子どもと一緒に住めるようになりました。
大阪赤十字病院の救急の特徴をお聞かせください。
吉村坂井義治院長と水大介部長により、救急の要請があればお受けし、その後は各科で対応していくという流れが作られています。以前から当院をかかりつけにしていらっしゃる方やウォークインの方も含めて、救急患者さんが多かったのですが、水先生が来られたことで、より多くの患者さんへの対応をしていこうということになりました。私たちも重症な外来患者さんを抱えていますが、そういう患者さんが大変な状況になったときに当院の救急で対応していただけるのは有り難いことですし、信頼もしています。
当直の回数はどのぐらいですか。
吉村月に1回か2回です。私は管理当直なので、救急外来で直接、患者さんに関わるのではなく、ベッドコントロールに関わっています。以前は日曜日の当直であれば1日中、当直して、月曜日の外来をして、その日に入院した患者さんを診にいってということで、帰宅が22時、23時ということもありました。今では考えられない長時間勤務でしたが、そういう経験はかなり積んできました。